当ホテル敷地内に江戸時代から変わらずたたずむ「蔵」。
一関藩校「教成館(こうせいかん)」として使用されていた場所です。現在は、宿泊者向けのバー「蔵BAR EBISU」としてご利用いただいております。
天明3年(1783年)、当時南部藩(現在の盛岡)にはまだ学校がありませんでした。
岩手県で最初に創設された学校の由緒をたどると、一関藩校「教成館」に行き着きます。
一関藩の歴代藩主は好学心豊かで、農民や町民でも才能ある者は士分に取り立て、藩校で教授させるなど、教育に力を注いでおりました。
その中で取り立てられた一人、地主町の商家の子 関養軒(せきようけん)。
養軒は一関藩に学校がない事を嘆き、「自力で学校を創設したい」と願い出ました。
これが認められ、藩医・衣関甫軒と共に藩校「一関学館」を創設。天明3年(1783年)、養軒23歳の時でした。数年後に「教成館」と改名された学問所で、養軒は初代学頭となりました。35年間もの長きにわたり、約千人もの子弟の教育に情熱を注ぎました。
教成館は、後に名前を変え、日本初の洋風彫刻家で東京美術学校彫刻科の創始者 長沼守敬や駐米全権大使高平小五郎などを輩出。
また、蘭学市場に名を刻む建部清庵、解体新書を回よくした大槻現渓、わが国最初の辞書「玄海」を編纂した大槻文彦の三賢人の活躍する礎となったと言えます。
蔵ホテル一関の玄関前には「教成館」の主唱者であり、蔵ホテル一関を経営する (有)教成館 創業者の祖・関養軒の顕彰碑があります。
養軒が後に著した「献金録」という書物の中に「孝教」を第一にすべし、とあり「教成館の号も孝教からより出たり」と記されています。つまり、中国の書物孝教の中に「教成」という言葉があり、ここから校名をもらったとあります。
養軒は、単なる学者ではなく、藩政・藩民の生活を絶えず考え、必要ともあれば権威を恐れず、救民の為に自説を主張した「憂国の士」でした。
「実行を努め浮華を喜ばす」つまり実践を重んじ、自ら清廉を保つ生き方をした真の学者であったと記されております。「今日の用に立つ」学問、実学を旨とした教えでした。
養軒の人生は、主に教成館の教育にありましたが、幅広い多くの著作並びに、献言を残しております。藩政・国政に対する献言も何回か行い、課税駅役などの軽減を求めて上申した「上言」などの文書も残されております。
関 養軒 (1761-1832)せき ようけん 一関藩校「教成館」初代学頭 幼名/良作・元龍・養軒
学徳を積んだ母の影響で、7・8歳のとき、すでに碑文などすらすら読める程になり、早くから素養をあらわした。10歳のとき京都に出て、その後江戸で儒学等の勉学に励む。
記するところあって、江戸や京都の様な大きな町でなくても、田舎でも勉強(人間修養)は出来ると悟り、一関に帰郷。
養軒の墓所は願成寺にあり、佐藤一斎撰文の墓誌名は現在も残る。
養軒の人生は、主に教成館の教育にあったが、幅広い多くの著作並びに、献言を残している。藩政・国政に対する献言も何回か行い、課税駅役などの軽減を求めて上申した「上言」などの文書も現存している。
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